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人殺しの気持ちを考えた事があるんだ

犯罪を犯してしまう人、とりわけ人を殺めてしまうような罪を犯す人とそうでない人とでは、ホロスコープ上に何か差異があったりするのだろうか?




そのような疑問を抱いて、殺人者の生年月日を収集し、ホロスコープを作ってみた事があります。




果たして、殺人者に特有なホロスコープ上の傾向が何かしら見つかったのか?




結論から言えば「NO」でした。




まぁ、考えてみれば当たり前の話ですよね。
出生時間や出生地の違いはあれど、その殺人者と全く同じ生年月日の人物はこの世にゴマンといる訳です。
それらの人々がその殺人者と同じように、人を殺すに至る要因を持っているのか?
そんな馬鹿な事はありません。




人を殺めるという重い罪を犯す事に法則性など存在しない。
殺人者が殺人に走る経緯にはおのおのの背景や理由があり、それらにある一定の傾向などを見つける事は出来ない。




そういった事が理解出来ただけでも、殺人者のデータ収集は無意味ではなかったような気がします。




殺人を犯すような人間がどのような生い立ちで、普段はどんな生活を送っていたのか。
どのようにして、我々と同じ日常を共有していたのか。
殺人者のホロスコープからはそのような事が浮き彫りになります。




勝田清孝連続殺人事件

勝田清孝は昭和47年から22件もの殺人を犯し“戦後最大のシリアルキラー”とも呼ばれる犯罪者です。
22件のうち、きちんと立件出来た事件はわずか8件のみ。
それ以外は彼の自供によって表沙汰になったに過ぎず、彼の裁判の長期化を案じた当局によって立件もされず、うやむやになって行きました。




勝田は殺人を犯したわずか6日後に、当時の人気バラエティ番組「夫婦でドンピシャ」に出演した事でも有名です。
「夫婦でドンピシャ」とは、今で言えば「新婚さんいらっしゃい」のようなノリの視聴者参加型番組だと思って頂ければいいかと思います。




1948年8月29日生まれの勝田清孝。
彼のホロスコープを見てまず感じるのは、ミーハー気質で面白おかしい事には目がないお調子者という人物像です。
「夫婦でドンピシャ」出演の際も、下ネタを交えた陽気なトークでかなり笑いを取っていたとか。
双子座の月と天王星の合、そこに天秤座の火星が吉座相を取っているので、傍目から見る分には“人を飽きさせない面白い人”という印象だったと思います。




勝田の事を語る上で良く言われるのが、
「人を殺しておきながらテレビ出演をしようと思える神経が理解出来ない」
という意見です。
でも、ホロスコープを見てみれば、テレビに出て面白い事を言いたがるウケ狙いのミーハー精神こそ、勝田の人間としての本質だとしか思えないんです。




問題は、そんな彼の本質と、人を殺めるという人の道に外れた行為が本人の中でどう折り合いを付けるに至ったか。




ここからは極論になりますが、人を殺める事が罪になるかどうかの基準は、必ずしも絶対ではないという事。
戦争の最前線に立っていれば敵兵を殺害する事は名誉となるし、現代でも死刑囚の刑の執行は国の法律で定められた重要な任務です。




そういう“厳然たる線引き”が存在しないという事は、どこで線引きがなされても理論上は不思議がない事になります。
だからこそ。




どうしても月末までに借金を返さなくちゃいけないとか。
嫁さんに浮気相手の存在がバレそうだとか。
自分の悪口を吹聴したアイツが許せないとか。




そういう“些細な事”で、人は人を殺してしまうのです。
殺人を犯す人間は決して、特別な人間じゃないんです。
人殺しなんて無縁な、平穏な生活を送っている我々だって、何かのきっかけで殺人者になってしまう可能性もゼロではないんです。




勝田の場合は“悪運”も味方しました。
ほとんどの殺人で彼自身に容疑がかけられる事もなく、パクられる恐怖からの解放と安心感を得て、さらに罪を重ねて行きました。
彼の犠牲者のほとんどは彼と面識がなく、身辺にトラブルを抱えているような人物ばかりだったのです。
犠牲者に近い人間関係から捜査は進み、殺人の容疑をかけられた人々はその後の人生を大きく狂わされたと聞きます。




金に困って空き巣に入った。
犯行を見られて口封じをした。
これが勝田の最初の殺人です。
でも、運良くそれがパクられずに済んだ。
人を殺してもバレないんなら、またどこかに盗みに入った時に、また人を殺す羽目になっちゃっても仕方ないか…




恐らく、こういう経緯で勝田は“戦後最大のシリアルキラー”になり果てて行ったのでしょう。
ノリに任せるまま、あれよあれよと。




人が人の道を外れる事は、誰の身にも起こり得る事である。
しかもそれは、必ずしも自分達の日常の中で起こらないという保証はない。




勝田清孝の事件から我々が得られる教訓とは、そのような事なのではないでしょうか。




勝田清孝は2000年に死刑を執行されました。
晩年は点字翻訳のボランティアに勤しむ日々だったそうです。

クリスマスが今年もやって来る

クリスマスが今年もやって来る♪
楽しかった出来事を消し去るように♪




…いや、ちゃんとわかってはいるんです。
本来の歌詞は、
「悲しかった出来事を消し去るように」
ですもんね。




でも、何故でしょう。
毎年恒例になった、あのフライドチキンのCMソングが流れて来るたびに。
どうしてもそう聴こえてしまうんです。




調べてみたら、同じような聴こえ方をしていたのはどうやら私だけではなかったようですね。

ケンタッキーのCMで、 「クリスマスは今年もやってくる 楽しかった出来事を…」 ... - Yahoo!知恵袋




まぁ、長く生きているとだんだんクリスマスなんていうイベントに新鮮味など感じなくなって行きます。
青春時代に味気ないクリスマスの思い出しかなかったのなら尚更です。
クリスマスに期待するのをやめてしまえば、12月24日は単なる年末のありふれた一日です。




だから、悲しかった出来事を消し去るほどの威力もクリスマスにはないけれど、楽しかった出来事を消し去るほどの威力もあるわけじゃないんですよね。
良く考えたら。




とりあえず、それが私に取ってのクリスマスです。




けれど。
どうも世の風潮としては、私みたいなスタンスの人間はあまり歓迎されないようで(笑)
今年も街全体がきらびやかなイルミネーションに包まれて、クリスマスはカップルで過ごさなきゃ負け組!なんて雰囲気は相変わらずです。
「クリスマス中止のお知らせ」なんてネタがネットで流行るのも無理ないですね。




私生活に問題を抱えている人がこういう雰囲気の真っ只中にいたら。
当然、自分ひとりが世の中から取り残されてしまっているような気分になる事でしょう。
それを思えは、なかなか罪作りなイベントですよね、クリスマスってやつは。




占いの観点から見ても、クリスマスの時期に全ての人が素晴らしい運気を迎えられる訳ではありませんもの。
どうしたってその時期には厳しい運気にぶつかってしまう人がいるのも、現実です。




必ずしもクリスマスにハッピーになってなくちゃならないなんて決まりはないんです。
そんな強迫観念を持っている方が、よっぽど不幸です。




クリスマスに好きな人と過ごせなくても、必ず後日埋め合わせがありますから。
それで良しとしましょうよ。




それでも、今の時期の賑やかさに焦燥感を覚えるようだったら。




早起きして、冬のキリッと引き締まった空気を吸いに早朝の街を散歩してみませんか?
朝日を浴びれば体内時計も正常化するし、冷え切った空気は頭をクリアにしてくれます。




何より、朝日に照らされた街路樹は電飾のコードがぐるぐる巻き付いていて、その光景は実に殺風景。
夜の間はあんなに華やかなイルミネーションがゴミだって思えて来て、きっと気が楽になりますよ(笑)

神経を研ぎ澄ます



こちらの画像。
ツイッターで拡散されて、今話題となっているそうです。




この問題が解ければ東大も夢じゃない!なんて言われているようですが。




皆さん、解けました?




わかってしまえば「なぁんだ(笑)」って問題なんですけどね。
小学生レベルの。




世の中にあふれる様々なトラブルや障害。
それらに出くわし、巻き込まれ、そういった問題の“当事者”になってしまった時に、一体何が我が身を救うのか。




今まで蓄えて来た知識や経験則で対処出来ればそれに越した事はないのですが、そんなものが役に立たないケースが往々にして存在します。
考えても考えても答えが出ない。
八方塞がりでどうにもならない。
そんな事態を打破するのが…




そう“ひらめき”です。




発明王エジソンの名言として語り継がれている、
「天才は99%の努力と1%のひらめき」
という言葉も、本来は
「1%のひらめきがなければ99%の努力も無駄になる」
という意味なのだとか。




もちろん、この“ひらめき”は単なる思い付きではありません。
偏見や先入観や感情や個人的な願望から頭を開放して全くのクリアな状態になった時に、今まで有り得なかった頭の使い方が出来るようになる。
その産物が“ひらめき”です。





例えるなら人間の脳の新たな領域を開拓して仮想メモリが得られ、新たな機能の獲得が可能になったとも言えるでしょうか。




やるべき事をコツコツとこなして行くのは、そりゃ大切です。
でも。
それをこなして行く事で何を得るのか…
それを何故こなす必要があるのか…
それをこなして行ったら、次は何をするべきか…
そこを考えもせず、ただ真面目にやりこなす事しか頭にない人。
つまり“応用力”のない人は、残酷なようですが、それまでの人なんじゃないでしょうか。
そんな人は“ひらめき”とは無縁ですから。




ところで。
ごく一般的な人が占いというものを思い浮かべる時、その多くは霊感だの超能力だの、超常的な能力を持つ人間しか出来ないものだと考える人も恐らく多かろうと思います。




もちろん実際は、そんな大層なものじゃありません。
大多数の占い師は、ごく普通の人間です。
占いという技術を有しているか、いないか。
ただ、それだけの事です。




それでも占いという技術を使いこなすにあたって、他の人とは違った頭の使い方をしなければならないのは確かです。




そう、より多くの“ひらめき”を得なければ仕事にならない。




そのためには日々、鍛錬です。
どんな風にでも応用の利く思考力を得るためには、もっと頭をクリアにして、神経を研ぎ澄まさなければ。




これを読んで下さっている皆さんも、もし興味を持たれたら、占いを学んでみられてはいかがでしょうか。
普段使っていない頭の領域を開拓するにはうってつけの知的遊戯になるんじゃないかと思います。




さて。
最初に紹介した画像の答えですが。




正解は100㎝²。
ちょっとした“ひらめき”があれば簡単ですよね。

僕の存在知らせたい

“自分の適職が知りたい”




占いに来られるお客様から多く投げ掛けられる質問のひとつです。




その人がどういう仕事に向いているか。
一見、簡単に答を導き出せそうな問題のようにも思えますが、これがなかなか一筋縄ではいきません。




向き不向き以前に、その人が仕事によって何を得たいのか。
お金を得るのが目的と、一概には片付けられません。
社会的名声を求める人、職場での仲間作りを目的と考える人、それぞれの優先順位があるものです。




それと、もうひとつ。
どういう自分を、周囲に認めてもらいたいのか。




心理学用語でいうところの、いわゆる「承認欲求」というやつです。
適職というものを考えて行く上で、ここが最大の難所と言えるかも知れません。




得意分野の仕事をこなして正当に評価を得る。
これだけで満足出来ない人もおられます。
本来不得手な仕事に携わっていて、周囲から見てもその人がその仕事に悪戦苦闘しているのは充分に伝わって来る。
でも、当の本人はそんな状況に満足している。
“悪戦苦闘している自分”を周囲にアピール出来ていればいい。
そういうケースも存在するのです。




この承認欲求というものは時として、非常に厄介です。
自分という人間が存在する事を周囲に知ってもらわなければ、人は生きて行けない。
極論になりますが、人間とはそういう生き物です。
けれど、それだけでは済まない事がある。
自分自身がイメージする“自分像”を周囲に認めてもらいたい。
自分自身が望む“自分像”以外の自分を認めてもらえても何の意味もない。
承認欲求が肥大してしまうと、そんなところまで行き着いたりもするのです。




承認欲求の肥大や歪みは自分では気付きにくいものです。
“ほんとうの自分”を追求するあまりに訳がわからなくなって、自分そのものを認めてもらうのではなく、
「こんなに健気に自分をみつめて来た自分の頑張り」
を認めてもらう方に気持ちがシフトしてしまっていたり。




そうなると、
「“ほんとうの自分”を一番理解出来ていないのは他ならぬ自分自身だった」
なんて事にもなりかねません。




自分が考えている以上に自分の存在は周囲にきちんと認識されているし、理解されてもいるものです。
その辺を誤解して、周囲に対して頑張り過ぎていたり肩肘張っていたりする人を見ると、もったいないなぁと思います。




“こう見られたい自分”というものを一度捨ててみると、意外とすぐそばに幸せが転がっているのかも知れませんね。

承認欲求 - Wikipedia

それが私のすてきなゆめ

もしも生まれ変わったら。




私は千原せいじになりたい。




冗談で言っている訳ではないのです。
結構、本気なんです。




だって考えてもみて下さい。
ずば抜けた社交性。
赤の他人に対しての距離感の無さ。
人の懐にあそこまでズカズカと土足で踏み込んで行くデリカシーの無さ。
これだけの要素を兼ね備えていれば、対人関係において最強じゃないですか。




かつてオダギリジョーが千原ジュニアに、
「僕はせいじさんに憧れている。せいじさんは僕にないものをたくさん持っている」
と言ったところ、
「逆や!あいつが持ってないものを君が持ってるんや!」
と返したエピソードがありますが、私自身、オダギリジョーに心の底から賛同したい気持ちです。
そしてきっと、私以外にもオダギリジョーに賛同したい方々は多いのではないでしょうか。




そんな千原せいじを、ぜひとも西洋占星術で分析してみたい!




では、さっそく見てみましょう。




1970年1月25日生まれの千原せいじ。
太陽と金星が水瓶座、しかもぴったり同じ位置にあります。
“合”の座相です。




太陽と金星の合は、目上の人から引き立てられる・可愛がられる要素、すなわち“パトロン運”を持っていると言われます。
この“パトロン運”を持っているから人に対して物怖じしないのか、それとも物怖じしない神経の太さゆえ人を惹きつけるのか。




月の星座は、出生時間が不明なため判断の付け難いところではありますが、恐らく獅子座ではなかろうか。
人に対してのあのオープンさは、とても乙女座だとは考えにくい。




そして、ここからが千原せいじという人間の本質を最も現していると私なりに考えたポイントです。




それは、火星の位置。
ホロスコープをひとつの円とし、牡羊座の0度からを始まりとすると、終点は359度。
つまり、魚座の29度です。
千原せいじのホロスコープにおける火星の位置は、この魚座29度にあります。




ホロスコープの出発点は、人間の自我の出発点。
そこから十二星座のひとつひとつを通過して、エゴや対人関係、社会性などのさまざまな属性を獲得します。
そうして最終的にたどり着くのが魚座。
魚座は、トランスパーソナルの領域を表す星座です。
牡羊座で芽生えた自我が、魚座に到達して“無”の中へ帰って行くのです。
そこは自分も他人も関係ない、個人のエゴを超越してしまったカオスな世界です。




そんな魚座の終着点に、他者への攻撃性や活動の方向性を司る惑星・火星がやって来るとどうなるか?




損得勘定や、他人に対しての自分自身の優位性などまるで関係ない、思い付くままの本能的な行動力が発揮されるのではないでしょうか。




人が人に対して行動を起こす際、自分の中のエゴが強ければ強いほど、相手に対しての行動は“意図的”になります。
良くも悪くも。
つまり、目の前の相手が自分の事をどう思っているのか、これから自分が取る行動をどう評価するのか、どうしたって気にしてしまうのです。
ところが、エゴを超越した人間はもはやそういう事には煩わされません。
純粋に、何の計算も何の抵抗もなく思ったままの行動を取るのです。




千原せいじという人は、そういう属性を持った人間である。
それが私の見解です。
エゴにとらわれて人の目を気にして自意識過剰になってしまう、そんな私のようなチンケな人間が、彼のような壮大なスケールの人間にかなうはずなどありません。




ところで。
ここで改めてはっきりさせて置きたいのですが、私はタレントとしての千原せいじのファンという訳ではありません。
人間が生きて行くための指針として、何か良いサンプルはないかと探していたところ、たまたま彼に行き着いたというだけの話なのです。




もう少しわかりやすく説明するために、最近流行りの漫画で例えると…




“巨人に捕食される恐怖から開放されるために、巨人を駆逐するのではなく自らが巨人になるという選択肢”




という話です。




余計わかりにくくなったかも知れないですね…(笑)