世界を救う歌
人が壁にぶつかった時、最も陥ってはならない思考とは何か?
それは、
「ただひとつの敵さえ倒せば、すべてが上手く行く」
という、思考停止の末の極論。
私は、そう思っています。
藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件
この事件の詳細を知れば知るほど、思考停止に陥った人間の恐ろしさをつくづく思い知らされます。
事件の背景となった状況から、何故こんな顛末になってしまったのかが結び付かない。
こんな結末に至らなければならなかった要因が、客観的にはどこにも見当たらない。
このような事件を目の当たりにすれば、誰しも人間の持つ狂気性に戦慄せざるを得ないでしょう。
殺されたバンドマンが、バンドの存続や自分自身の今後について思い悩んでいた事は充分に理解出来ます。
しかし、このバンドマンに取って不運だったのは、自分自身が奮起して現状打破のための試行錯誤をしようとするよりもっと短絡的に物事を解決したがる、そんな悪い癖を持った人物が常に寄り添っていた事でした。
バンドマンの妻と共に彼を細切れの肉片にした、彼の従兄弟。
この従兄弟の経歴を見るに、恐らくひとつの場所に腰を据えられない、困難な状況に直面すればそこから逃れてやり過ごすような生き方が身に付いてしまった人物なような気がします。
確かにそれは楽な生き方です。
一見、苦労のない勝ち組な人生に見える事でしょう。
だからこそ、バンドマンはこの従兄弟を心の拠り所にしてしまった。
確かにこの事件が発覚した昭和62年は、インターネットも何もない時代です。
音楽で食べて行くための手段も発表の場も限られていたでしょう。
しかし、この頃にはすでにナゴムレコードなどのインディーズレーベルが立ち上がってもいるのです。
既存のレコード会社に頼らない音楽活動のあり方が模索されていたのです。
いわゆる“インディーズブーム”の着火点が、この頃だったのです。
このバンドマンがもう少し冷静であれば、もう少し試行錯誤をしてみようという気持ちがあれば。
音楽活動を続けて行くための選択肢が、まだ示されていたかも知れません。
しかし彼は自分の置かれた状況を前にして、思考停止してしまいました。
いわく、
「上手く行かないのは、すべて“悪魔”のせいだ」
同じく思考停止した従兄弟が追い打ちを掛けました。
「“世界を救う歌”を書けば“悪魔”は退散する!」
馬鹿げた話です。
逃げたりせず真正面から取り組まなくてはならない課題。
時間を掛けて根気強く待てば解決策が見えて来る課題。
そういったものすべてを一緒くたにして、彼らは“悪魔”とみなしてしまいました。
自分達の一身上のトラブルがいつの間にか全世界を支配する“悪魔”になり、そんな“悪魔”も“世界を救う歌”という魔法の呪文で退散する。
もはやそれはファンタジーの世界。
ファンタジーの世界ならば細かく切り刻まれた肉体も塩で清めさえすれば見事に復活を果たしたでしょう。
しかし、ファンタジーの世界は彼らの脳内にしかありません。
いくら肉片に塩を擦り込んでも、バンドマンが蘇生する事はありませんでした。
もし私達が困難な状況に直面したら。
困難な状況がどのようにして成り立っているのかを、まず分析してみなくてはなりません。
怖くても。
面倒臭くても。
そうすると、解決のための糸口や優先順位がきちんと見えて来ます。
その方がよっぽど簡単なんです。
気の遠くなる作業のように思えるかも知れませんが。
困難な状況を、ゲームの中のラスボスのように考えてしまってはいけないのです。
「こいつさえ倒せば…!」と息巻いても、そのラスボスは自分の脳内でいくらでも強大になります。
客観性を失った頭で、ラスボスの勢いをコントロールするのはもう無理です。
自分の目の前にある課題は悪魔でもラスボスでもありませんし、ましてや全世界の敵でもありません。
世界を救う歌なんてものひとつでどうにかなるほど、世界の方だってそう単純に作られちゃいません。
冷静に、地道に、コツコツと頑張って行くしかないのです。
たとえ今は自分の力が及ばなくても、そのうち何とかなりますから。
それは、
「ただひとつの敵さえ倒せば、すべてが上手く行く」
という、思考停止の末の極論。
私は、そう思っています。
藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件
この事件の詳細を知れば知るほど、思考停止に陥った人間の恐ろしさをつくづく思い知らされます。
事件の背景となった状況から、何故こんな顛末になってしまったのかが結び付かない。
こんな結末に至らなければならなかった要因が、客観的にはどこにも見当たらない。
このような事件を目の当たりにすれば、誰しも人間の持つ狂気性に戦慄せざるを得ないでしょう。
殺されたバンドマンが、バンドの存続や自分自身の今後について思い悩んでいた事は充分に理解出来ます。
しかし、このバンドマンに取って不運だったのは、自分自身が奮起して現状打破のための試行錯誤をしようとするよりもっと短絡的に物事を解決したがる、そんな悪い癖を持った人物が常に寄り添っていた事でした。
バンドマンの妻と共に彼を細切れの肉片にした、彼の従兄弟。
この従兄弟の経歴を見るに、恐らくひとつの場所に腰を据えられない、困難な状況に直面すればそこから逃れてやり過ごすような生き方が身に付いてしまった人物なような気がします。
確かにそれは楽な生き方です。
一見、苦労のない勝ち組な人生に見える事でしょう。
だからこそ、バンドマンはこの従兄弟を心の拠り所にしてしまった。
確かにこの事件が発覚した昭和62年は、インターネットも何もない時代です。
音楽で食べて行くための手段も発表の場も限られていたでしょう。
しかし、この頃にはすでにナゴムレコードなどのインディーズレーベルが立ち上がってもいるのです。
既存のレコード会社に頼らない音楽活動のあり方が模索されていたのです。
いわゆる“インディーズブーム”の着火点が、この頃だったのです。
このバンドマンがもう少し冷静であれば、もう少し試行錯誤をしてみようという気持ちがあれば。
音楽活動を続けて行くための選択肢が、まだ示されていたかも知れません。
しかし彼は自分の置かれた状況を前にして、思考停止してしまいました。
いわく、
「上手く行かないのは、すべて“悪魔”のせいだ」
同じく思考停止した従兄弟が追い打ちを掛けました。
「“世界を救う歌”を書けば“悪魔”は退散する!」
馬鹿げた話です。
逃げたりせず真正面から取り組まなくてはならない課題。
時間を掛けて根気強く待てば解決策が見えて来る課題。
そういったものすべてを一緒くたにして、彼らは“悪魔”とみなしてしまいました。
自分達の一身上のトラブルがいつの間にか全世界を支配する“悪魔”になり、そんな“悪魔”も“世界を救う歌”という魔法の呪文で退散する。
もはやそれはファンタジーの世界。
ファンタジーの世界ならば細かく切り刻まれた肉体も塩で清めさえすれば見事に復活を果たしたでしょう。
しかし、ファンタジーの世界は彼らの脳内にしかありません。
いくら肉片に塩を擦り込んでも、バンドマンが蘇生する事はありませんでした。
もし私達が困難な状況に直面したら。
困難な状況がどのようにして成り立っているのかを、まず分析してみなくてはなりません。
怖くても。
面倒臭くても。
そうすると、解決のための糸口や優先順位がきちんと見えて来ます。
その方がよっぽど簡単なんです。
気の遠くなる作業のように思えるかも知れませんが。
困難な状況を、ゲームの中のラスボスのように考えてしまってはいけないのです。
「こいつさえ倒せば…!」と息巻いても、そのラスボスは自分の脳内でいくらでも強大になります。
客観性を失った頭で、ラスボスの勢いをコントロールするのはもう無理です。
自分の目の前にある課題は悪魔でもラスボスでもありませんし、ましてや全世界の敵でもありません。
世界を救う歌なんてものひとつでどうにかなるほど、世界の方だってそう単純に作られちゃいません。
冷静に、地道に、コツコツと頑張って行くしかないのです。
たとえ今は自分の力が及ばなくても、そのうち何とかなりますから。
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