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ツインシティ

本来の地名とは別に「通り名」のような、もうひとつの呼び方がある都市。
これを「ツインシティ」といい、世界的にも大変珍しいのだそうです。




「博多」という呼び名を持つ、我が街福岡がそれに当たります。




しかし、この「博多」と「福岡」というふたつの呼び名は、地元民以外の他の地域の方々にはかなりの混乱を招く元になっているようです。




え?博多市じゃないの?とか。
福岡市があるの?じゃあ博多市はないの?とか。




博多と福岡は本来別々の街で、福岡は黒田藩福岡城の城下町として、博多は福岡より那珂川を隔てた向こう側で栄えた商業地区として存在していた歴史があります。
それが明治以降、鉄道が開通して人々の交流が盛んになる過程の中で、九州の玄関口として大きな機能を果たす「博多駅」が全国的にも知られるようになり、県名としての福岡よりも「博多」の名の方がネームバリュー的に上になって行ったのです。




「HKT48」にしても、あの劇場があるのは厳密には「博多」じゃないんですが、博多の名を冠した方が対外的に通りがいいんでしょうね。
AKBが秋葉原、SKEが名古屋市栄、NMBが大阪なんばと、他の系列グループはその地域に密着した名前が付いているのに対して、博多でもない場所にありながらHKTと付けられているのは地元民としては釈然としない部分はあります。
それに、なんかすごく「地元のグループなのに結成に地元の人間が関わらせてもらってない感」を感じてしまいますしね(笑)




それはともかく。




福岡は日本のリバプールとも言われ、数多くのミュージシャンを輩出した芸能の街でもあります。
そんな福岡で数年前から開催されているのが「Music City Tenjin」というイベント。
9月29日・30日の二日間は、福岡市天神のあちこちでフリーライブが決行されるのです。
私もおととしに天神中央公園のライブを観に行きましたが、とても楽しかったです!
ちょうどIMALUちゃんが出演していたところを観たんですけど、生のIMALUちゃん、テレビで見るよりずっと可愛かったですよ!




福岡の秋の風物詩になりつつあるこのイベント、是非県外の方々にも来て頂いて、福岡の賑やかな空気を味わってもらいたいなと思います。




あ、思い出した。
どなたかのTwitterでの呟きで「HKTの劇場があるのはホークスタウンモールの中だから、HKTは博多の頭文字じゃなくて、ホークスタウンの頭文字だ」というのがあったらしいです。
私も、その説を採用したいと思います。
HKT48のHKTとは博多ではなく「ホークスタウン」の事です(笑)
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アレがちょっとデリケートに出来てる

自分自身の好き嫌いなどの嗜好が、果たして他の人にも受け入れられるのだろうか?
そんな事を、わりと気にしてしまう性質です。




特に子供の頃などは、自分が怖いと思うものになかなか周囲が共感してくれず、しかも親を始めとする大人に笑われたりして、周囲が考える以上に嫌な思いをしたものです。
トラウマなんていうと大袈裟ですが。




そんな、私自身の幼少期のトラウマ(笑)のひとつがコイツでした。





「仮面ライダーX」に登場したラスボス、キングダークです。




この画像でわかるように、登場する時は常に横になり、頬杖をついた上半身だけの姿しか映らない。
この巨大さの描写が、当時幼かった私にはまさにドはまり。
しかも体の小さな子供に取ってはブラウン管のテレビ画面も今のホームシアター並の大きさです。
キングダーク登場のたびに、呑み込まれてしまいそうな圧迫感と威圧感で私はいつも怯えていました(笑)




確かに、今見ると何となく笑っちゃいそうになりますがね(笑)




これは私の個人的な見解ですが、何が好きか・何が嫌いかという嗜好は、わりと周囲との関わりの中で形成されて行く事が多い気がします。
それに対して「何が怖いか」という部分についてだけは、もっと内面的な、周囲との関わりから断絶された深層心理の領域で育つもののように思えます。
そう、心の闇の部分というか。




あるものを好きになった、あるいは嫌いになった理由は比較的人に説明しやすい・説明するのに心理的抵抗がない。
でも、あるものが怖くなった理由についてはあまり人に言いたくないケースが多い。
または何故それが怖くなったか自分でも良くわからない。
具体的に言うと、このような差異がある印象ですね。





私に取ってのキングダークは実に他愛ない恐怖の対象ですが、人それぞれの多彩な恐怖の対象の中には、あまりそこに触れてはいけないものもあるかも知れません。




誰しも、デリケートな領域というものがありますからね。

あの衝動をもう一度

やる気を出して何かをやらなくちゃいけない時、肝心のその「やる気」がどうしても出て来ない。
良くある事ですけど、これってしんどいですよね。




でも、過去の自分を振り返ってみると、意外にやる時はやれてたりしてるんです。
受験勉強がその最たるものかも知れません。
今から思えば、あの時、自分の中に良くあんなパワーが秘められていたもんだ!と感心するような状況。
若い頃など特に、そういう経験をされた方も多いでしょう。




あの時発揮したフルパワー。
それを、ここぞという時にまた発揮出来ないものか。




これって、特別な秘策はないようです。
そもそもやるべき事に着手する前にやる気を高めようとする試み自体が無意味なんだとか。




つまり、やる気が出なくても、まずは手を付けてみる。
嫌々ながらでも、とりあえずやり始める。




こうしなきゃ、やる気というものは湧いて来ないんだそうです。




自分自身を追い込め!って話ですよね、結局。
そうしているうちに、無我夢中になって来る。
ドーパミンがどんどん湧いて来る。
気が付いたら、やり遂げてしまっている。




そして残るのは、爽やかな達成感です。




何事も難しく考え過ぎちゃいけませんよね。
考え込むよりも、まずは行動しないと!

「シミュラクラ現象」、日本語に訳すと「類像現象」という言葉を御存知でしょうか?




∵ ←このような、三つの点が逆三角形に並んでいる状態を、人間は「顔」だと認識するように遺伝子レベルでプログラミングされているのだそうです。
右目、左目、そして口ですね。
これを、心理学用語でシミュラクラ現象と呼ぶのだとか。




デジタルカメラの普及で、いわゆる心霊写真といわれるものもずいぶんと影を潜めましたが、それでもいまだにネット上ではその手の画像が出回っています。
かつての心霊写真は現像の段階でのミスから発生したものがほとんどだったのですが、最近のデジカメ撮影による心霊写真の多くは、このシミュラクラ現象の理論によって説明がついてしまうようです。




すなわち、草むらや岩の陰影が、偶然、点で構成された逆三角形の形を取っている。
つまり「顔」を形成しているように見える。
そのような箇所が写真に写りこんで、それを人は「心霊写真だ!」と言っている。




こういう事例を見て、オカルト否定派の人は「霊など存在しない!」と指摘するのだと思われますが、私自身はそれも少し違うと思います。




物体として「霊」というものが存在するとは私も考えません。
「霊」とは、あくまで概念のひとつです。
霊は物体として存在する!と主張するなら、それは「エセ科学」です。
主張を通すために科学的法則、つまり自然の摂理をねじ曲げる事になってしまいます。




ある場所へ行くと何かがおかしい、でも何がおかしいのかはわからない、何やら漠然とした気持ち悪さを感じてしまう。
そんな感覚を抱く人がひとりと言わず、複数存在している。
そんな人達が、その得も言われぬ感覚をみんなで共有するために「あそこには霊がいるよね!?」という表現をする。




概念としての「霊」は、このような経緯で成り立って行ったのではないでしょうか。
「死後の世界」という概念の方ともセットになって。





「霊」という概念で表現された、その気持ち悪さの正体は、これから科学の力でもっと解明されるかも知れません。
しかし、人間が感覚的にとらえる微妙な変化や違和感を、霊なんていうオカルトチックな言い回しで伝えようとする事自体はこれからもなくならないと思います。
むしろ、ささいな変化に対して「これって霊のしわざ?」と思ってしまうような感受性を否定して、人間が本来持つ野性的感覚をどんどん鈍らせてしまう事の方に危機感を感じます。





なんでもかんでも「心霊現象だ!」と騒ぎ立てるのもどうかと思いますが、そういったものを頭から全否定するのもある意味、科学的態度とはほど遠いと言えるのではないでしょうか。




シミュラクラ現象の理屈を持ち出してもなお説明しようがない心霊写真も、どうやら存在するようですしね…

思い出を残そう

今の自分は、一秒前の自分ではありません。
一秒後には、今の自分は存在しません。




リアルタイムの経験に、替えは利きません。
何度も同じ事を繰り返し経験していても、過去にそれを経験した時と今またそれを経験した時点とでは、思い入れも経験値も全然違います。
子供の頃読んだドラえもんと、大人になってから読むドラえもんとでは、着眼点からして違いますよね?




今しか出来ない事、今しか見れないもの、今しか感じ得ない気持ちを大切にしましょう。




過去にはもう、戻れないのですから。




そうして思い出をたくさん、たくさん残しましょう。
過去へは戻れない代わりに、思い出を振り返る事なら出来ますから。




そんな思い出がたくさんあればあるほど、人生は豊かになります。

休みの国はまだ遠い

「日本人は働き過ぎだ」
欧米諸国から、かつてそう揶揄されていた時代がありました。




「日本も欧米並みに休暇を取る習慣をつけなければならない」
そう主張する知識人もたくさんいました。




確かに、昔聞いた欧米のバカンス事情にまつわる話は私達の海外への憧れをより一層募らせるものでした。
南仏プロヴァンスへのまるまる一ヶ月の旅行とか、スペインのシエスタの習慣とか。
海外生活のエッセイなどを読むと、日本人には新鮮な話がたくさん出て来てワクワクしたものです。




「いつかお金と時間に余裕が出来たら、欧米人のような優雅な生活を送りたい」
多くの日本人は、そんな夢のために休む間を惜しんでせっせと働いて来たのです。
当の欧米人にどんなに揶揄されようと。




ところが。
その欧米から端を発した、リーマンショックだのギリシャの経済破綻だのという危機的状況。
バブル崩壊から立ち直れない日本に、さらに追い討ちをかけるような事態が訪れました。




その上、あの東日本大震災です。




今や、これから先の生活をどう維持して行くかが今の日本人に取っての課題になってしまいました。
優雅なバカンスなどと言ってる場合ではなくなったのです。
少なくとも一般市民は。



この、どん底の状況からどう抜け出せばいいのか。




綺麗事を言ってしまえば「希望を持とう!」という言葉になるのでしょうが。
「希望」という抽象的な言葉を使うから、上っ面をなぞるだけのような表現になってしまう。
ならばいっそ、




「欲を出そう!」




と言ってしまうのはどうだろうか。




小さな事からでいいんです。
「来月お給料が出たら、新しい服を買おう」とか。
「来月お給料が出たら、焼肉でも食べに行こう」とか。
つまり、そういうささやかな「自分への御褒美」を、出来る範囲のところから自分に許していいんじゃないか?って事なんです。
だってお金を使わなきゃ、経済は動きませんから。




そうやって小さなところから経済が回って行って、小さな欲がだんだん大きな欲に育って行って。
そしてまた、優雅な海外へのバカンス休暇を夢見る事が出来る世の中になれば…




甘い考えでしょうけれど、でも私達ひとりひとりがこの程度の欲を出せなければ、それこそもう日本は終わりだと思います。




心を折らない事。
絶望しない事。




これからが、日本の正念場です。