ロンドンオリンピック開会式、皆さんは御覧になりましたか!?
素晴らしかったですよね!
次世代を担う若きアスリート7人の灯した聖火がひとつになる瞬間。
そして、ビートルズの名曲「ヘイ・ジュード」を、ポール・マッカートニーと共に会場中で大合唱。
胸が熱くなりました。
御存知の方も多いと思われますが「ヘイ・ジュード」のジュードとは、ジョン・レノンが前妻との間に設けた息子、ジュリアン・レノンの事だと言われています。
父・ジョンと母・シンシアの破局に心を痛める幼いジュリアンを励ますため、ポールがこの「ヘイ・ジュード」を作ったというエピソードが一般的には良く知られています。
このジュリアン・レノンと、オノヨーコとジョンの間に生まれたショーン・レノン。
奇しくも、この異母兄弟は共にミュージシャンとして活動中です。
当人同士の関係は良好なようですが、かつてジュリアンとオノヨーコの関係はしっくり行っていなかったという噂もあるようですね。
オノヨーコは、ビートルズ解散の原因のひとつを作った人物とも言われ、彼女をあまり良く思わないビートルズファンも少なくありません。
「ヘイ・ジュード」を熱唱するポールをテレビで見ながら、私は漠然と考えていました。
「オノヨーコ、これ見て今、機嫌悪くしてんじゃなかろうかなぁ…?」
それはともかく(笑)
個人的には閉会式の演出もとても楽しみ!
私の大好きな英国のミューズ、ケイト・ブッシュが出てくれたら、もう歓喜の嵐ですけどね…
まぁ、難しいだろうな…(笑)
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半年ほど前から、ダイエットを始めました。
ダイエットするにあたって、まず考えたのはとにかく「続ける」事。
元々スタイルのいい人がちょっと太って短期集中的に痩せるのならいいけれど、私の場合はそうはいかない(笑)
長い期間かけてじっくりやらないと、ちょっと痩せてリバウンドして…のパターンを繰り返して、たぶん余計に無惨な体格になってしまうと考えたわけです。
なので「炭水化物抜きダイエット」はまず無理と判断しました。
炭水化物を減らしたローカロリーの食べ物ばかり食べ続けても、きっとストレスが溜まるばかりだろうし。
それに、そういう食事を続けられても体が慣れてしまって、結果的にだんだん痩せにくい体になってしまうらしいです。
で、私の取った方法。
それは、「朝、とにかくたらふく食べる」事でした。
割合的には、朝>>昼>>>>夜といった感じでしょうか。
カレー、揚げ物、ラーメン、果てはデザート類にスナック菓子。
ダイエット中は禁物とされている食べ物も、食べたくなったらなるべく朝のうちに食べてしまおう!というやり方です。
あとは一日の摂取カロリーと栄養のバランスに気を付ける。
夜は極力低カロリーで。
寝る前にお腹が空いても「朝起きたらいっぱい食べるんだ!」と自分に言い聞かせ、とにかく寝る(笑)
これがなかなか効果的でした。
今は、朝はパスタが多いですね。
ミートソースにクリームソースと、やはり高カロリーなメニューですが。
しかも二人前はあろうかという大盛りをモリモリ食ってます(笑)
パスタは炭水化物の中でも特に、消化後すばやくエネルギーとして燃焼されやすいのだとか。
なのでスポーツ選手の試合前のエネルギー源として、パスタは最適なのだそうです。
なので朝パスタを食べるのは理にかなっているのかも知れません。
現在ダイエットの方は小休止といったところです。
でも、もうそろそろ気合いを入れ直す時期かも。
また近いうちに運動も再開して、理想体重に近付かなければ!
いよいよロンドンオリンピックです。
日本人選手の活躍、とても楽しみですね!
オリンピックといえば、記憶に残る小説がひとつ。
田中英光という作家が書いた「オリンポスの果実」です。
田中英光は1932年のロサンゼルスオリンピックに、代表選手として実際に出場を果たしています。
「オリンポスの果実」は、その時の経験をもとに書かれた小説なのですが…
オリンピックそのものはあくまで背景でしかなく、この小説は最初から最後まで、同じ代表選手として一緒に渡米したひとりの女性に向けての恋心がひたすら切々と綴られているのみなのです。
主人公の恋は、まったく進展しません。
想いを寄せる女性との満足な心の交流もありません。
恋心を打ち明ける事も出来ず、ただ片想いのまま物語は進みます。
私がこの小説と出会ったのは高校生の時でした。
恥ずかしながら男子生徒からまったく相手にされない、本当に冴えない女子高生だった私は、この、同じところをただグルグル回っているだけの不器用な主人公に共感し、感情移入し、この小説にのめり込みました。
今思えば典型的な「中二病」でしたね(笑)
大人になり、さらに占い師という人間の心理を読む職業に就いた今なら少しは客観視出来ます。
この主人公も、当時の自分も、自分に酔っていたんだなと。
自分に酔うのは、小心で対人スキルもない情けない自分を直視したくない気持ちの裏返しです。
この「オリンポスの果実」は、著作権の切れた文学作品を中心にウェブ上で公開している「青空文庫」というサイトでも読む事が出来ます。
ちなみに田中英光自身は太宰治と師弟関係にあり、太宰の死後薬物に溺れ、心酔する師の墓前で自ら命を絶ちました。
生き方そのものも、不器用な人だったようです。
今の季節、日が落ちると駐車場の隅っこや、下手するとど真ん中で猫が転がっていたりします。
昼間の暑さでバテたのか、溶けたチーズのように長々と伸びている姿は緊張感のかけらもなく、あまりの脱力感に見ている人間の側も脱力。
そんな気の抜けた様子を観察するのもまた、猫好きの醍醐味です。
ところで、良く言われるジンクスに「黒猫が道を横切ると不運が訪れる」というものがあります。
おそらく欧米発祥の言い伝えかと思われますが、その欧米では同時に黒猫はギャンブルの守り神とも言われているとか。
人間にとって馴染み深い動物は数あれど、猫ほど吉凶交えた多種多様なイメージを持つ動物もいないでしょう。
招き猫に例えられる幸運のシンボルに祭り上げられたかと思えば「この泥棒猫!」なんていう不名誉な例えにも使われてしまう。
まぁ、いくら人間がどれだけ好き勝手にイメージを押し付けようとも、猫は猫。
猫好きにとっては猫の可愛らしさがそれで揺らぐわけでもありませんし。
そんなわけで、明日からもまた路上の猫ウォッチングに精を出したいと思います(笑)
「圭子の夢は夜ひらく」などのヒット曲で一世を風靡した演歌歌手・藤圭子。
彼女は本来は、演歌ではなくポップスを歌いたかった人なんだと、どこかで聞いた事があります。
だとすれば、自分の夢を子供に託したという点において、あそこまで成功した人は日本国中どこを探してもいないでしょう。
でも、すべての子供が、藤圭子にとっての宇多田ヒカルのように親の望みを叶えられるわけではありません。
というより、親の望みを叶えるためだけに子供は存在するのではありません。
ヤフー知恵袋や発言小町では、いわゆる「毒親」に悩まされる人の相談をよく見かけますが、たまに相談者自身が「毒親」なのではないか?と思われる相談も混じっていたりします。
自分の思いのままに子供をコントロールしたい、けれどそれがかなり常軌を逸している…というケースです。
私のところにも、小さいお子さんを持つ親御さんが「この子は将来どんな人になるでしょうか?」という質問をされによく来られます。
そういう場合、その親御さんの性格をそのまま焼き付けたようなホロスコープのお子さんもいれば、親御さんとはまるで真反対な性格のホロスコープのお子さんもいるのが非常に興味深いです。
自分にとって理解しがたい性格の子供ほど、自分の手で矯正したい気持ちが強まるのかも知れません。
また、そもそも頑張り屋さんで負けず嫌いで自己実現の欲求が強い人は、やはり子育ても頑張り過ぎてしまいがち。
子供をコントロールする事に情熱を注ぎ込みやすくなってしまう。
でも、結局のところ子供は親とは別人格。
当然ながら、子供には子供の人生というものがあります。
親の想像をはるかに超える資質を、その子供が持っている事だって有り得ますし。
子供は、いずれ大人になって行く存在。
かつて子供だった自分がそうであるように。
子供には無限の可能性があるからこそ、親の夢を叶えるためだけの道具にしてしまうのはもったいない話ですよね?
ずっと諦め切れずに自分の子供に託すしかなくなった夢を、人の親になる年齢まで抱え込んで来たのなら…
もういい加減、見切りをつけませんか?
この間面白い雑学を見つけました。
人間の脳の記憶容量は、HDDだと4テラバイト、Bru-rayディスクだと80枚、DVDだと850枚なのだそうです。
なんか、普段はDVD一枚分の映画の内容すらまともに覚えきれてないような気がするのですが…(笑)
でも実際には、とっさに思い出す事がないだけで、生活の中で見聞きしたものをちゃんと記憶の奥底にしまい込んであるのでしょう。
それらがきっと、深層意識という世界を作り上げているんですね。
脳は硬い頭蓋骨に守られてはいるものの、何かあったらすぐ傷付いてしまう、豆腐のように柔らかくデリケートな臓器です。
これからの季節は熱中症も心配ですが、ちょっとした不注意で転んで頭を打ったりしないよう気を付けて下さいね。
暑さでぼんやりしていると、普段やらかさないようなミスをしてしまいがちです。
「これくらい大丈夫」と放置して、硬膜外血腫などの重篤な症状を見逃してしまわないとも限りません。
特に、まだ骨格の発育が不完全な小さいお子さんは要注意。
暑さでやる気の低下した脳には「たけのこ」が良いのだそう。
やる気を高める脳内物質・ドーパミンを生成するアミノ酸が、たけのこには豊富に含まれているのだとか。
ちょっと季節外れの食材ではありますが、冷凍食品や水煮の缶詰めなどで手軽に摂る事も出来ますよね。
大事な脳をいたわりつつ、この夏を頑張って乗り切りましょう。
プロジェクトXのナレーションなどでも知られる個性派俳優・田口トモロヲ。
彼が80年代に率いていたバンドが、知る人ぞ知る「ばちかぶり」。
この「ばちかぶり」に限らず、80年代のインディーズ・アングラシーンで活動していたバンドは、今では考えられないくらいに滅茶苦茶な事をやっていたようです。
ステージ上で下半身露出。
客席に臓物を投げ散らかす。
ユンボでライブ会場を破壊して入場。
などなど…
先日都内のライブハウスで、主催者自らの性器を切り取って食そうというパフォーマンスが開催されて大問題になりました。
ああいう騒動を平気で引き起こしそうな可能性のある危ない輩が、80年代という時代には相当数溢れていた…
と言ってしまうと、ちょっと極端過ぎるでしょうか(笑)
でも、そういうアングラシーンの中心人物が今では演技派と呼ばれる名優になっていたり、世界規模で名声を得るアーティストになっていたりするのですから、世の中わからないものです。
「爆裂都市~BURST CITY~」はそんな80年代に封切られた映画です。
ロッカーズにルースターズという、めんたいロックの代表格バンドを主演に据え、共演陣には泉谷しげるに現・芥川賞作家の町田康などなど。
ロッカーズのボーカルだった陣内孝則の若々しい姿。
さらに当時町田町蔵と名乗っていた町田康の、目を奪われるような美少年っぷり。
見どころは満載ですが、何よりあの出演者が今また一堂に会する事など実質もう難しい事を考えれば、貴重な映像である事は間違いないでしょう。
映画の中味も、ストーリーを追うというより勢いだけで押し切ってしまうような印象。
今の時代にああいう映画を作っても、あの時代のような受け入れられ方はまず期待出来ないでしょうね。
滅茶苦茶な音楽をやって、滅茶苦茶な映画を作って、滅茶苦茶なパフォーマンスをやらかして。
馬鹿な時代だったなぁ、と正直思います。
あの時代に戻りたいか?と訊かれて素直に「はい」と言えるほど、私もそこまで懐古主義ではありません。
でも、とにかく何かを生み出したい・表現したいという欲求と闇雲なパワーはきっと、今のこの時代に決定的に欠けているものだとも思います。
こんな考えも、やっぱり懐古主義でしょうか(笑)
2ちゃんねる系のまとめサイトとかコピペ集。
暇潰しにもってこいですよね。
私も、ちょくちょく携帯から読んだりします。
中でもお気に入りは「中二病コピペ」。
中二病、という言葉を御存知ない方にその意味を説明するならば。
まぁ、平たく言えば若さゆえの暴走というか、「汚い大人になりたくない!」「社会の枠組みに押し込められるのはまっぴらだ!」なんていう青臭い台詞を吐きたくなる思春期特有の心理というか。
そんな、大人になって思い返したらあまりの恥ずかしさにクッションに顔をうずめて足をバタバタさせたくなるような、イタい言動の数々が収められていて、笑いを誘われます。
誰しも多かれ少なかれ「自分には無限の可能性がある」と信じたいものです。
何か特別な能力が備わっている、本気を出したら周囲がたじろぐほどのパワーを秘めている、周囲の人間は軽く見るけどしかるべき人物からは一目置かれる存在である…
でも、人は成長するにつれ、現実を知り、現実の自分を受け入れ、分不相応な大それた夢は見なくなって行きます。
それが「地に足の付いた大人になる」っていう事ですもんね。
いい大人になっても夢を見続ける事は自由です。
ただ、それならそれで夢を現実にする努力が求められます。
それもまた、大人の責任です。
いい大人がゴールのない、見果てぬ夢を見続けるのは単なる「現実逃避」です。
まだ思春期の子供が「自分には無限の可能性がある」と夢見るのは、成長過程において大切だと思います。
だって、無限とはいかないにしても、大人と違ってそれなりの可能性が子供にあるのは事実ですからね。
そんな夢さえ見れない環境に子供が置かれているとすれば、それはとても不幸な事です。
だから思春期の子供が中二病を発症するのも、成長して行く中ではありがちな事。
後から思い出して、恥ずかしさのあまりクッションに顔をうずめて足をバタバタさせるのも、分別のある立派な大人に成長したという証。
だから笑い話になるんですよね。
なので、そんな中二病関連の話、私は大好きです。
メンズナックルのキャッチコピー集と同じくらい、大好きです(笑)
最近、髪を切りました。
これから暑くなる時期。
久々に頭も軽くなって、気分もさっぱり!
髪を切るという行為は、風水の面から見ても運気アップにつながるようです。
髪は、人の念や邪気を吸い込みやすい部分。
悪い気を吸った髪をバッサリ切るのは、良い厄落としになるのかも。
でも、普段のヘアスタイルを変えるのって、ちょっと勇気がいりますよね?
ロングヘアにしている人はなおさら、ショートにするなんて考えられなかったりして。
周囲から自分がどう評価されているかを気にしてしまう人ほど、ヘアスタイルも含めたイメージチェンジに臆病になってしまうもの。
そういう人ほど、あえて大胆にイメージチェンジを図ってみましょうよ!
そこで何かが吹っ切れて、周囲に対してもあまり気を使い過ぎる事がなくなったりして、対人関係をもっと円滑に進められるかも知れません。
自分のイメージを自分で固定してしまうのはもったいない話。
自分自身の隠された魅力を、もっと開拓してみては?
昭和50年に放送が始まった国民的アニメ「一休さん」。
幾度となく再放送され、時代を越えてたくさんの人から愛される作品です。
一休さんの舞台は室町時代。
この頃を含めた中世の日本は動乱の世。
応仁の乱などの激しい戦や飢饉により、民衆は辛酸を舐め尽くしました。
そんな極限状態の人間が生きて行くさまを描いた作品に、ジョージ秋山原作の「アシュラ」があります。
「アシュラ」は連載開始当初、人肉食の描写の是非で物議を醸したいわくつきの漫画です。
一休さんが京の都で将軍さまや桔梗屋さんをとんちでやりこめて「こりゃまた一休さんに一本取られたわい」なんて、そんなほのぼのした笑いが起こっているちょうど同じ頃。
都のはずれでは餓えた人間が、同じ人間の死肉をむさぼる「アシュラ」の地獄絵図が繰り広げられていた…
それが現実だったのでしょう。
「一休さん」の中にも、そんな世の矛盾に一休さん自身が苦悩するエピソードがあります。
このお話は御存知の方も多いのではないのでしょうか。
苦しむ人々を助けられない無力な自分を嘆いた一休さんは、奇怪な行動に出ます。
杖の先端にガイコツを据え付け、正月気分で浮かれる京の街を「お気を付けなさぁい!」と叫びながら練り歩いたのです。
そんな一休さんの不吉な姿に「縁起でもない!」と石を投げる街の人々。
そこで、一休さんが後年詠んだとされる短歌がカットバックされます。
“元旦は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし”
人は正月をめでたいと言って祝うけれども、正月を毎年迎えるという事は、毎年確実に「死」へ近付いているという事。
我々は、生きている事そのものに対して、いったいどれだけの思いを持っているのか?
一休さんが投げ掛けた問いは、当然現代に生きる私達も考えなければならない命題です。
この混沌とした、先の見えない今の時代。
世の中を変える力はなくても、私達ひとりひとりが「今を生きるという事」を大切に考えて行けるのなら、少しは良い方へと世の中も進んで行くような気がします。
決して自暴自棄にならないように心掛けながら…
ちなみに「アシュラ」の方は今年、アニメ映画となって劇場公開されるそうです。
生きる意味というものを考える上でも、今回の映像化は個人的に関心を持っています。
観に行くには、覚悟が必要ですが。
よく耳にする言葉ですが。
日本語で言えば「共時性」、もっと平たく言い変えれば「意味のある偶然の一致」。
これも、元々は心理学者ユングが提唱した概念です。
前にここで取り上げた「集合的無意識」によって、人々は根底で共鳴し合っている。
「シンクロニシティ」という現象は、それゆえ、一見何の関わりもない人々の間で、偶然の一致としか呼びようのない形で同時多発的に起こり得るのである…
そういう理屈です。
物理学の観点でも「一羽の蝶が羽ばたいて起こした振動が、最終的に遠い地でのハリケーンを巻き起こす可能性」という一例と共に論じられる説でもあります。
日本にも古くから「風が吹いたら桶屋が儲かる」という言い回しがありますが、それを科学的に言い換えればそういう事になるのでしょう。
ある人が片想いで悩んでいたとします。
その片想いが「通勤・通学途中に見掛けた人に一目惚れした」とか「芸能人に恋した」などという、その相手との人間関係が出来上がっていない状態での片想いでないならば。
その相手との人間関係がある程度構築されているのならば。
その相手は、多かれ少なかれその人に自分を好きになってもらうべく、何らかの行動をその人に向けて取っているはずなのです。
仲のいい友達から恋愛関係に発展させたいけど、相手にその意思がない。
相手から「付き合う気はない」と拒絶されてしまった。
私の占い師としての経験上、こういうケースで「相手はあなたを嫌っている、だからすぐあきらめろ」などという占断は、実はほとんど出て来ません。
大抵の場合、付き合えないとすれば何らかのしかるべき要因がひそんでいる事が多いのです。
新しい恋愛に前向きになれない…
異性とのお付き合いというものが出来る生活状況じゃない…
前の恋人とまだ清算出来ていない…
さまざまなシチュエーションが考えられます。
結局のところ、あなたが好きになった人は、あなたに好かれたいと思った人なのです。
その欲求にあなたが共鳴して、その恋は始まったのです。
だから、片想いの恋を叶える方法は、焦らずじっくりと構えていればどこかでちゃんと見つかります。
そのためには、まずはその相手との現時点での信頼関係を大切にする事。
くれぐれも、一時的な感情の暴走で、相手との今の関係をぶち壊したりしないで下さい!
皆さんの恋が成就しますように…
心が疲れている時、無理矢理元気を出そうとしてはいけない事。
前にも書きました。
そういう時は思い切り泣いたりして感情を発散させるのも良いけれど、何も考えずに「無」になるのも良い方法。
「心を癒さなきゃ!」と気負うより、ただぼんやりと無駄な時間を過ごす方が、よほどリフレッシュ出来るものです。
いわば、心の「自然治癒力」を信じるわけですね。
そんな時におすすめの映画を、また紹介しましょう。
「モンティパイソンの人生狂騒曲」
イギリスのコント集団・モンティパイソンによる「人生とは何か?」をテーマに描いた映画です。
テーマ自体は壮大ですが、中味は正直言ってしょうもないです(笑)
下らないです(笑)
お下劣な場面、グロな場面もございます(笑)
でも…
その中に、心がほんわかと暖かくなるくだりがワンシーンあります。
私自身、その場面が大好きなんです。
それがどういう場面なのかは、ぜひ本編を見て探して頂きたいと思います。
余計な事を考えなくなったからっぽの心には、必ず「やる気」が満ちて来ます。
人間の心って、意外とタフなものですよ。
誰しも「人生の成功を勝ち取るためにはどうしたらいいか?」という事を考えると思います。
そこで、とかく凡人はこう考えがちです。
「成功者と呼ばれる人達は、きっと我々凡人が考えもつかない方法を編み出して成功を勝ち取っているに違いない」と。
では、果たしてそうなのか?
東大合格者に受験必勝法を尋ねると「教科書に書かれている内容をきちんと理解するだけ」という答えが返って来たりします。
まぁ、この答えが全てではないでしょうが、ある程度の真理は突いているように私には思われます。
古来から「下手の考え休むに似たり」という諺があるように、知恵のない者がどんなに奇をてらった事をやってみても、大抵の場合は無駄なあがきで終わるものです。
先が読めないのに、下手に動いては事態は悪化するばかりです。
それならばいっそ、ジタバタせずに状況の変化に身を委ねている方が、最低でも事態の悪化は防ぐ事が出来るのではないでしょうか。
自らの力を過信せず、状況の変化に逆らわない事。
そして、基本をおろそかにせず、過去の経験や先人の知恵に学ぶ事。
成功の法則があるとしたら、結局はそこに行きつきそうな気がします。
でもそれを実践するとなると、それはそれで難しいものですけどね(笑)
そういう、成功に向けての時流の波やヒントを見つけるのに、占いはお役に立てるはずです。
占い師の仕事を通じて、たくさんの方々のホロスコープを見させて頂きましたが、そこで気付いた事があります。
一見フェミニンな、女性らしさに溢れた女性のホロスコープって、意外と男性的だったりするんですよね。
推測するに、これはたぶん内面的に男っぽい要素の多い女性は「男性の望む理想の女性像」に合わせて自分を作り替えて行く事に抵抗がないからだと思われます。
もっと下世話な言い方をすれば、男性の側に「この女とヤリたい!」と、いかに思わせられるか。
内面的に女性らしい女性の方が、その辺りに抵抗を感じるようです。
つまり「男に媚びるのなんてイヤ!」という感情の方が先に立つのですね。
でも実際の恋愛の場面においては、どちらが有利という事ではなく、大切なのは意中の男性がどういうタイプを好むか?という事。
だから、男に媚びるのが上手いからと言っても、そういう女性を好まない人だっているわけですから、そこはあまりステレオタイプに考えても上手くは行きません。
そして何より大事なのは、自分自身がどういう恋愛傾向を持っているかを知る事。
こればっかりは、実際に人を好きになってみないとわかりません。
恋をする事は、自分を知る事。
だから皆さん、どんどん恋をしましょうよ!
私が占いの勉強を始めてから幾年月…
昔と比べると、本当に便利な時代になりました。
ホロスコープひとつ作るにも、かつては天文歴の細かい数字を追いかけながら電卓片手に、面倒な計算で時間をいたずらに費やしていたものでしたが。
今は生年月日に出生時間・出生地を入力しさえすれば、あっという間に基本的なホロスコープの出来上がり!
ちょっと検索すれば、そんな便利なウェブサイトがいくつもヒットします。
でも、そうやってホロスコープを作る手間は省けても、それを読み解くのは人間の頭脳です。
こればっかりはどうしようもありません。
昭和40年代に「怪奇大作戦」という、円谷プロ制作の特撮SFドラマがありました。
その中でも特に名作の呼び声高いのが「呪いの壺」というエピソード。
全編京都ロケを敢行したこの回、実在するお寺を借り切って撮影が行われました。
この回のクライマックスは、そのお寺が火に包まれ大炎上するという場面!
でも、そのお寺はセットでもなんでもない、本物のお寺です。
本物のお寺に放火なんて出来ません。
時代も時代ですから、CGなんてのもあるわけありません。
そこでどんな手を打ったのか?
そのお寺の、精巧なミニチュア模型を一から作り、それに火を点けて燃やしたのです。
その映像に、別撮りの逃げまどうキャストのフィルム映像を合成し、大炎上シーンを完成させました。
そのシーンの迫力たるや!
おそらくこれをCGで作っても、あんな臨場感は出なかったでしょう。
実際、放送を見てびっくりしたお寺の檀家さん達から電話が殺到して、しばしお寺がパニック状態になった…という逸話が残っているくらいですから。
最新のテクノロジーがなくても「人の心を揺さぶりたい!」という強い熱意があれば、時代の垣根を越えて感動を呼べるのです。
占いも、元々は古来から人から人へ受け継がれる知恵であり、最新技術を使いこなせるからと言ってその知恵をも使いこなせられるわけではありません。
この便利な時代に占いが出来るありがたみを感じながらも、これだけは忘れてはならないな…と思います。
長年福岡で暮らしていて痛感するのは、街の変化の目まぐるしさです。
ショッパーズ専門店街も、つい最近「ノース天神」にリニューアルされたばかり。
天神のパルコも、オープンしてもう2年くらい経つでしょうか。
あそこがかつて岩田屋デパートだった事も、これからはだんだん知る人が少なくなって行くのでしょう。
当時の岩田屋デパートの賑わいは、映画「嫌われ松子の一生」でも描かれていました。
あの頃のデパートって、大抵屋上に遊園地があったんですよね。
岩田屋屋上の遊園地のはずれ、ちょうど本館と新館の連絡通路の辺りはちょっとしたゲームコーナーになっていました。
そのゲームコーナーの中でもさらに隅っこの、日の当たらない薄暗いところに、占いゲーム機が一台置いてあったんです。
そのゲーム機、ちょうどベールを被った占い師を模した形に作られていて、占い師の顔の部分はブラウン管のモニターがはめ込まれていました。
お金を入れて操作すると、そのモニターが砂嵐画面になり…
そのうちに、毒々しい化粧を施した占い師の顔が、ぼおおおおっ…と浮かび上がって来るのです。
それがもう、不気味で不気味で不気味で不気味で…
子供心に、軽いトラウマか植え付けられました(笑)
そんな私が、何の因果か占い師の仕事をするようになりましたが。
私が占って差し上げたお客様から、あの時の幼い私のような目で、あの時の不気味なゲーム機のように私の事を見られちゃいないだろうか?
そんな事をふと、思う時があります(笑)
それはともかく。
今のパルコにはその当時の匂いなどもう微塵もなくなってしまいましたが、あの頃の記憶がいまだに消える事なく残っているのは、ある意味幸せな事かも知れないですね。